design-mori http://blog.design-mori.jp/ 陶磁器デザイナー森正洋のはなし ja-jp 2017-10-24T12:48:00+09:00 勉強会1. http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=77331 いろんな勉強会を森正洋を囲んですることができました。その最後になったその名も「森正洋研究会」、その会について何回かの記事に分けてお話しします。始まったのは、森正洋が愛知県立芸術大学を退官になった1993年4月からです。終わりは森正洋が発病したその年の6月です。その間の3回しかできなかった会の内容をお話ししようと思います。9人のメンバーで始まったこの勉強会は、当面毎月一回第二火曜日に集まることを準備会で相談し、森正洋に提案し受け入れられ早速スタートしました。これまでも1988年の肥前吉田焼窯元協同組合青年部の中国景徳鎮への旅行のための勉強会を皮切りに、同じ嬉野町に住む森正洋に依頼する組合主催の勉強会(いろんな補助を受け)は1990年まで何度か開催されました。今回お話しする勉強会は、まったく私的に集まって森正洋の話を聞きたいという集まりで内容の濃いものになりそうでした。その中での森正洋の発言の記録をひっぱり出してお話ししようと思います。 2007-01-31T10:49:53+09:00 作業終了 http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=59709 やっと2006年8月6日からスタートした「作業」が終了した。暑い夏の暑い日ばかり、土・日とお盆の間をフルに使った強行日程に多くの人たちが参加してくれた。ありがたいことで、記録撮影をしてもらったカメラマンの村林さんの言葉を借りれば、「太陽が厳しく降り注ぐ酷暑の中での皆様方の奮闘振りを拝見し、森先生の偉大さを改めて認識し・・・」、みんなもくもくとと言いたいところだがそうでもない人もいたり・・。とにかく9日目の8月20日の日曜日に終わることができた。大掃除と記録撮影が完了した。 2006-08-27T07:39:27+09:00 イサム・ノグチと森正洋5 http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=47084 イサム・ノグチ展のポスターこのポスターといっしょに居られたのもわずか2日間だけでした。森正洋を身近に見ながら、いろんな人たちに似ているところをいつも感じていました。イサムノグチにも前出の「イサム・ノグチ―宿命の越境者」によれば「せっかちでことば足らずで・・・」。病院で「イサムノグチ展」の図録を見ながら、ぜひモエレ沼公園や牟礼の美術館にも美佐緒さんといっしょに行きましょうとお話をしていて、友人たちといっしょにそれらを訪ねるシーンも想像できていたのに残念でなりません。(となりはmujiの白磁の食器を藤塚光政さんに撮影していただいたものを長崎県美術館のパネルにするための試作) 2006-04-15T11:11:07+09:00 イサム・ノグチと森正洋4 http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=45875 イサム・ノグチ展ポスター森正洋の最後となった入院中、ちょうど東京都現代美術館で「イサムノグチ展」をやっていたのでよけいイサムノグチの話しをしていたのかもしれません。最初の手術がすんでハイケア病棟にいた時に、東京から持ち帰ったその展覧会の図録とポスターをちょっとだけ見せることができました。うんうんとうなずいて後で見ようと言ったのでそのまま車に積んでおきました。一般病棟個室へ移った最初のことばが、「あのポスターその壁がいいな。」でした。しっかり覚えていて、どこにはるかなど考えていたようです。全てがそうのようにいつもいろんなことを頭の中において、どうすれば一番いい状態で使えるかとか、その人にとって何が一番いいのかとかいろんなことを考えることで頭の中はいっぱいだったようです。 2006-03-29T13:28:26+09:00 イサム・ノグチと森正洋3 http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=45479 ニューヨークでの食事と雲の上の会話1961年ニューヨークでの食事の時を思い出しながら、森正洋は「雲の上の人たちの話しは、興味があったなー。でもなにか禅問答だったように記憶している。」と話していました。その時の食器については「猪熊さんに丹下さんがプレゼントしたものらしい、情報はみんな早く伝わっているのを実感したね。」言い、またそのときのイサムノグチの印象を「気さくな人だった。」と話していました。死後人を神格化してしまってはいけないとも言っていまして、そのことばはすごくわたしには大きくひびき、忘れてはいけないと思っています。偉大な死んでしまった森正洋のことを、稚拙な文章でも多くの人に伝えたいと思います。その人にとって偉大な人をなくしたときの、またその後の心境をいろんな人たちに聞いてみたいと思います。 2006-03-23T18:43:44+09:00 イサム・ノグチと森正洋2 http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=44913 イサム・ノグチのパリ留学は森正洋の生まれた年1927年、イサム・ノグチはパリに留学します。森正洋が生まれた年です。それから34年後偶然にもこの二人が出会うことになります。しかしその後はなにも直接の接触はありません。「イサム・ノグチ―宿命の越境者」ドウス昌代さん著2000年講談社発行の本に寄れば、その少し前1959年ころはニューヨークは空前の日本ブームだったそうです。そのころ猪熊弦一郎のアパートはイサムノグチのニューヨークでの定宿だったとありますが、その2年後はニューヨークにもアトリエをもっていたかもしれません。丹下健三さんも交流があったと書いてあります。そのとき、当時のイサムノグチといっしょに仕事をしていた庭師は、佐野藤右衛門さんのようです。若い庭師とは言っていなかったので年配の人かと勝手に考えていましたが、森正洋より二つ三つ若いことになります。 2006-03-15T22:29:38+09:00 イサム・ノグチと森正洋1 http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=44637 イサム・ノグチと森正洋ニューヨークで1961年森正洋はある方の援助を得て、ロサンゼルスからメキシコ・ニューヨークと旅をしています。その後ヨーロッパを回って帰ってきました。その間にいろんな人との出会いをしています。ニューヨークのJETROの事務所での話し。「写真では見てこちらは知っている男性から声をかけられた。明日の夜わたしのアパートにご飯を食べに来ないかと。有名な芸術家が偶然なぜそこにいたのかわからないが、社交辞令か?事務所の職員に聞いたけど、そうではないらしい。わたしのことを知っているのだろうか?教えられた場所へ行って食事をごちそうになったが、そのとき謎が解けた。1960年にデザインした錆千筋のシリーズがそのときもう食卓に並んでいたんだ。」その当時ニューヨークに猪熊弦一郎が住んでいました、そこに招待された夕食のこと。そのときいっしょに食事をしたのが、イサム・ノグチだったそうです。 2006-03-11T12:17:57+09:00 G型しょうゆさし 3 http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=43724 幻のG型しょうゆさしの話し1960年の亀倉雄策さんが作ってくれた受賞記念のパンフレットにしょうゆさしの完成までの努力の話が書いてあります。「何回もコミティーのメンバーの改良の指摘を受け、そのたびに修正し制作したものを提出した森正洋氏もそれに協力を惜しまなかった白山陶器も・・・」と言う文面で苦労を重ねてできた産物のように書いてありますが、本人にとってはそうではなかったようです。http://unit.aist.go.jp/collab-pro/tnn/mono-db/design-hist/kn5/news05_p034-035.htm上記ページは、「工芸ニュース 総集編5/軽工業デザイン」の中の「5 クラフトデザインの芽生え-1959」のページで紹介されているところです。G型しょうゆさしが図面・写真で紹介されています。このしょうゆさしの大と小は違うものとして作っていたようです。最終的には現在の「G型しょうゆさし」大・小になるわけですが。実はこの幻のしょうゆさしの現物が森正洋のところにはありません。もしお持ちの方がいらっしゃったらご連絡を下さい。森正洋の収蔵物の中に先日このしょうゆさしのボディーを発見しました。しかし蓋はありません。現在の小の蓋をかぶせていても違和感はないのですが、そうもいきません。(現在はこんな状態で展示しています) .. 2006-02-24T18:51:46+09:00 旅行の話6(イラン旅行2) http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=43631 イラン旅行2 1990.12-1991.1■ペルセポリスのレンガこの旅行のひとつの楽しみ「ペルセポリス」。写真で見ても映像で見ても、おぼろげに広さなどをわかるくらいで、どんなところだろうと興味がありました。そこから見渡す風景は雄大で古代に来た錯角を感じるほどでした。遺跡の中は、いたるところ修復工事中です。でもそれがよかったのです。溝を修復しているところにレンガを見つけました、川のそばのレンガ工場のようなところでできたものでしょう。黄色いレンガなのです。「その土地土地でレンガの色は異なる」と森正洋は言い、どんな風に焼いているのか興味をもったようです。その直後にその工場に遭遇するわけですが・・・。普段の私たちのたびならとつくづく思いました。今考えても残念です。・このイラン旅行は、モロッコ旅行の企画3回目でやっといける直前まで来て中止になってしまい、森正洋と私の二人はあいてしまったスケジュールを埋めるためにどこかのツアーに乗っかることにしました。そこでいきたかったイラン旅行を道祖神や西遊で探したわけです。 2006-02-23T16:44:54+09:00 旅行の話し5(イラン旅行1) http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=43556 イラン旅行1 1990.12-1991.1■やっぱりレンガ工場中国もベトナムもトルコもやっぱりレンガを作る工場は、川の中州や川のそばなのです。レンガ工場を見つけたのは、シラーズから出てペルセポリスを見学し、遺跡のあるナグシュ・ロスタムへ向かうボルヴァール川のすぐそばでした。写真はわかりにくいのですが、河原へ降りて粘土が採取できるようになっているように見えます。右手奥に平たい台形の建物のようなのがレンガを焼く窯のようです。10基ほどはあったようです。道路に沿って右へ回り込んだところです。手前の窓のあるブロックで造られた建物は、事務所のようです。右に見える乗用車が小さく見えます。この奥にはもっと大きなものが見えました。トルコのレンガ窯より大規模に生産活動をしているようです。しかし今回は、じかに見て質問することができませんでした。というのはこの旅行西遊旅行の企画に乗っかったもので、先の遺跡に行くことを優先しました。帰りに寄ろうと言うことで、しかし帰りは遅くなり真っ暗になって寄ることができませんでした。そこで翌日は、ガイドを独占しシラーズの町でタイルを焼いている人のところへタクシーをチャーターして出かけましたが。森正洋は人に大変気を遣う人で、旅行の時はとくにそれが強く出ていたように思われます。このレンガ工場を見ることができなかったのもまわりのひとのこと、たぶんレンガ工場など興味がないだろうと自分を優先させなかったこと、によく現れていたようです。 .. 2006-02-22T13:18:40+09:00 旅行の話4(トルコ旅行4) http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=43012 トルコ旅行43-1989.7■レンガ工場レンガ工場というより、レンガが積んである広場です。窯などはなく、写真のなか後方のレンガが積んであるところが「窯」にあたります。■レンガ造りの説明をします。1.そこいらの土をドラム缶で作った土錬機でこねます。ここの動力はロバでした。それを地面の下から、屈強なひげのおじさんが一輪車に取り出し広場の中央へ運びます。2.運ばれた土を若い労働者(10代半ば)の手で、木型に入れて形を作り取り出して地面に並べ日干しします。3.乾燥が終わった日干しレンガは、粉炭をすきまに入れながら幅15m長さ30m高さ3mほどに積み上げます。4.下から火をつけじわっと焼きます。ここでは一月ほどで焼き上がると言っていました。積み上げたレンガのまわりには覆いも何もありません。5.この写真の後方は、焼いた後で冷まして取り出しているところです。温度が上がったところは、変形するほど熱量がかかり、くっついたりして、私たちの基準では使い物にならないところもあります。彼らはトルコ国内、数カ所を転々としてレンガを焼いている一族だそうです。●こんなふうに道ばたの見逃しそうなところも、森正洋といっしょに旅をすれば見つけ、そこで働いている人たちと話しをして、いろんな情報を収集できて楽しく有意義な旅になりました。こんなレンガ窯は、中央アジアからヨーロッパ・ハンガリーあたりまでつながっているそうです。後日、イランのレンガ窯の紹介ができると思います。 .. 2006-02-12T19:18:47+09:00 リンドベリと森正洋-3 http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=42861 スティグ・リンドベリと森正洋-2「芳武茂介さんが少し前ヨーロッパを回っていたから、どうだろうと聞きに行ったんだ。すると『日本人が行ったらだめだ、どこも見せてくれない、模倣をする国の人間には見せないと言うんだ』と言ってたから、私も北欧のいろんな工場を見ることは無理だろうと思っていた。しかしリンドベリに会ってみると工房もグスタフベリも隅々まですべて見せてくれた。じつはリンドベリの工房の棚にはいくつもの私の作品を並べているんだ。私のことを知らないと思っていたら、向こうは興味津々で遠いアジアの東の私のことを見ていたんだ。」と話してくれました。森正洋は、なぜか2004年に発売され小松誠さんも協力された「スティグ・リンドベリ作品集」(プチグラパブリッシング)を2005年夏の終わりに持っておけと私に渡したのです。もちろん私は持っていたのですが。その本が今後の私にとっては、キーワードになってしまいそうです。 2006-02-09T22:55:54+09:00 リンドベリと森正洋-2 http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=42802 Konstfackでスライドレクチャーギセラ・エロンさんの「スティグ・リンドベリ作品集」(プチグラパブリッシング)、129ページのコンストファックにてのページに掲載の写真(1960-1961)、まさにその時そのようなシーンだったようです。ぜひ興味のある方はこの本を購入してください。森正洋の写真にその時のシーンがないか探してみようと思います。森正洋は「リンドベリの工房に併設した学校でスライドレクチャーをした。」と言っていましたが、じつはその当時コンストファック(Konstfack)の講師をしていたリンドベリといっしょにそこでレクチャーをしたようです。また「やっぱり大人気のティータイム」ができたようです。「なかなかいいんだ、お茶を飲みながらいろいろ話しをしている。生徒も先生もリラックスして、いい雰囲気だった。」と話し、いつまでも記憶にしっかり刻み込まれていたようです。 2006-02-08T18:40:21+09:00 リンドベリと森正洋-1 http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=42742 スティグ・リンドベリと森正洋-11961年にグスタフベリでいっしょに撮った写真です。変色しています、でもそのままにしています。この時のことをいろんな取材の中や機会があるたびに懐かしそうに話していました。このときスティグ・リンドベリ45才、森正洋34才。やはり一番信頼するデザイナーの一人だったと思います。トレードマークの蝶ネクタイはいつものように、しかしこの写真のリンドベリひげをはやしていますよね。珍しいのではないかと思います。 2006-02-07T18:28:04+09:00 旅行の話3(トルコ旅行3) http://blog.design-mori.jp//index.php?itemid=42643 トルコ旅行3-1089.7同じく「デザインの現場」で掲載された写真です。イズニックでタイルの復活をさせた人の工房でいつものスタイル、ビデオカメラを肩に担いで質問をしているところです。その日はイズニックの湖岸のホテルに宿泊しました。日本からよく予約が取れたものだという安宿(バスはなくシャワーだけのツインの部屋)でしたがそれがまた大変よく、西日の差す部屋では洗濯物がなんと1時間で乾いてしまうほどなのです。そんな宿に二泊し、イズニックの町を楽しみました。もともとはイスタンブールのモスクのタイルをすべて供給していた町なのですが、いまではその面影もなく、タイルを作る人もいなかったのです。この写真は数年前に復活させたその人の窯を訪ねたときのものです。この町ではいろんな思いもかけない体験をしました。トルコはイスラム教を政治とは分離させた国で、飲酒を禁止していません。しかし田舎町ではおじいさんやおばあさんたちの目は厳しく、昼飯のない安宿を出て町中で食事をするときはビールを出す店がないのです。ビールを飲みたい森正洋とiさんは町中のレストランを探しましたがなく、アルコールなしのメンバーがそれぞれ食事を済ませ、集まった町の中心部に店にビールを見つけ購入しおばあさんたちの後ろ指を指されながら飲める場所を探しました。この後の話しはは長くなってしまうので、また後で紹介することにしましょう。 .. 2006-02-05T19:06:50+09:00